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2007年1月19日 (金)

初春月雑感

 元旦より体調すこぶる悪し。
 これは母親譲りか。ぼくの母は元旦によく寝込んだ。年中無休で店(お茶屋)を開いていた。その疲れが正月休みに出るのだろうと子どもながらに思った。
 身体の具合も悪いが懐具合はなおさら悪い。寝正月を決め込むにしくはなし。
     *
 目が覚めると男が立っていた。
 金属バットを下段に構え、いまにも打ち込んできそうな気配だ。目が殺気立っている。
 ぼくは慌てて立ち上がり、防御のために電気スタンドを手探りで探す。しかし掴んだのは電気毛布のスイッチだった。無防備のまま男の前に立ちつくした。目を逸らしたらやられると思った。
「これは夢だ。夢だ。夢だ」
 男の目を見据えたまま、ぼくは叫びつづけた。
 すると男の姿は、ゆっくりと時間をかけて溶けるように部屋の暗がりに消えていった。
 なんちゅう初夢だ。まだ夜明け前だった。
     *
 今年のテーマと目標を決めた。
 テーマは、“音”
 毎年、漢字一字をテーマとしている。昨年は「恕」だった。怒ではありませんよ。
 目標は──、
1.毎日脚本を書く。
2.毎日辞書(書籍)を使う。
3.牧水と龍之介の全集を読破する。
     *
 7日、万年筆のメンテナンスのため新宿・伊勢丹へ行く。
 セーラー万年筆が「ペン・クリニック」を開くのだ。モンブランのマイスターシュティック149と大橋堂の手作り万年筆を持って行く。いずれも20年のつきあいになる。感情をそのままぶつけるぼくの筆圧をよく受け止めてくれている。さぞ閉口していることだろう。
 ペンドクターのKさんがちょっと手を加えただけで、見違えるほど書き味が良くなった。うれしくなってカフェに飛び込み、原稿用紙に龍之介の文章と牧水の歌を書いてみる。繰り返し書く。気持ちがいい。満席のカフェでひとりほくそ笑んでしまった。万年筆の書き味も快楽のひとつだとしみじみと思う。
 以来毎日、龍之介の文章と牧水の歌を原稿用紙に書いている。
     *
 10日、……偶然にすぎないけれどね。
 夜、食料調達のため町田駅付近まで行くことにした。ところが100メートルも歩かないうちに胸が痛みだした。恋の病じゃなくて、胸が焼けるように痛い。いいえ、胸焼けでもなくてね。歩けなくなってその場に座り込んだ。諦めて自宅に戻ることにした。痛みは1時間ほどで治まった。ニュースでも見ようとテレビを点けた。
 ところで、我が家と町田駅の間には、森林公園と見紛うような木立の多い公園がある。春の桜、初夏の青葉がとても気に入っている。国際版画美術館があるのもいい。その公園の中程を横切る公道を、町田駅への行き来にぼくは使う。
 で、テレビを点けた。ニュースを見た。先月、新宿と渋谷で切断された男性の遺体が見つかった事件を報じていた。今夜その男性の頭部が発見されたという。発見された場所が、ぼくが歩けなくなったところから5分ほど先へ進んだところだった。
 翌日、その地点へ行ってみた。捜査はすでに終わったようだが、ブルーシートは張られたままで警備の警察官が立っている。その傍を小学生たちが集団下校していく。なぜこんなところに遺棄したんだろう。一刻も早く遺体を手放したかったということだろうか。
 報道によると、容疑者は町田に土地勘はなかったと供述しているという。また遺棄したのは先月17日の昼間だったらしい。
 その日の自分の行動を日記で調べる。遅い午後、その道を歩いていた。ぼくは容疑者とすれ違っただろうか。
 愛が憎しみに、喜びが悲しみに、そしてその逆も、人は常に変化しつづけているのだろう。牧水の歌が浮かぶ。

  とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ 牧水

     *
 部屋の配置を換えた。
 仕事机の位置を思い切って変えた。部屋が幾分広くなったように感じる。気分が少しだけ軽くなった。
 それにしても驚嘆するはパソコン関連機器のコードの夥しさよ。
     *
 16日、監督の友人と会う約束をしていたが胸が痛んで動けない。
 新年早々、友人との会合をいくつかキャンセルしている。いかんいかん。
     *
 17日、別れた嫁さんの三回忌。
 出しゃばってはいけないと、ひとり静かに冥福を祈る。

  書き終へしこの消息のあとを追ひさびしき心しきりにおこる 牧水

     *
 明日(20日)、帰郷する。
 甥っ子の結婚式だ。帰郷するたびにサッカーボールを蹴り合った坊主があっという間にぼくの背丈を抜いて、大人になってもぼくのことを「兄ちゃん」と呼ぶ。
 披露宴では、両家を代表して謝辞を述べることになった。その雛形を式場からもらったがどうも気に入らない。あれこれと考えて、ここはやはり牧水の歌を一首、盛り込むことにした。

  手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に 牧水

 そうだ。誰もが春の日のみどりの海の無限の岸に立っている。

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2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

 おめでとうございます。
 ありがとう、2006年。
 こんにちは、2007年。
 本年もよろしくお願いします。

 若山牧水が大正7年の雑誌『創作』新年号にこんなことを書いています。
 牧水の歌に対する態度、信念がよく現れていると思うので、ちょっと長いけれど全文掲載します。

   ひとり言

    新年の賀状に代へ、この一文をわが読者に送る
    ○
 輝け。
 ひややかに輝くと、火のごとく輝くと、そはその人の本然に拠る、とにかく輝け。
    ○
 寂は輝の極り沈みたるものである。
 輝くことなくして、先づ寂をねがふ愚及び難し。
    ○
 自己を知れ。
 否、修養書のいはゆる「自己を知れ」ではない、根本的に自分の生きていゐことを痛感せよといふのだ。
 やがて生命のなやみは起る。
 詩歌──すべての創作はその悩みから生るる。云ひ得べくんば、純真無垢のこころの輝きは其処から発する。
    ○
 自己を知らふとする努力に、読書、思索、而して創作がある。
    ○
 全身的であれ。
 井戸端会議式の不平や、いつの間にか狡猾な習慣の老婆から押売せられてゐた趣味や興味や、若くは不良少年式の小手先の冴えや、それらは殆ど作者自身真実自分に関係のあることか無いことかを危ぶむ程度のものが多いのだ。其処に何のひかりがあろうぞ、ありとすればそは僅かにガラス玉のひかりである。
 自己全体を自然の前に神の前に投げ出して初めて其処に純真無垢の自然の光が宿る。謂はば、その光の発する時、われみづからが神であり、自然の表象であるのだ。
 その光をすなはちわれらはわれ等が歌に点す。
    ○
 われみづからの小さき知慧にたよるな。
 おのれを空しうしてただ神の前に立て。
    ○
 おのれだにきよからば路傍の草にも神を見る。
 おのれだにきよからば随所に輝く歌を見る。
    ○
 友よ、歌をうたはむ。
 わが生(よ)のあかしのために。
 いのりのために。

 牧水の弟子であった大悟法利雄氏は、元旦の牧水の様子を著書『若山牧水伝』に書かれています。
「元旦はまだ除夜の鐘の鳴っているうちに目をさました。そしてその鳴り終わるのを聞いて静かに起きあがった。顔を洗い火鉢の火をかき立ててから机と原稿紙とを持ち出したが、やがてまたそれを片ずけて酒の用意を始めた。湯をわかし、食卓を出してから妻を起こした。午前二時である」

 いまちょうど午前2時になるところです。
 2007年が皆さまにとって佳き年となりますように。

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