忍成修吾インタビュー
忍成修吾くんのインタビューがウェブ上で読めます。
ニフティ・シネマトピックスです。
ぜひご一読ください。
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中野広志という登場人物は原作(高橋三千綱著)には出てこない。脚本を作るなかで生まれたキャラクターだ。徹(筒井道隆)の同僚巡査・中野広志役を忍成くんにやってもらおうということは、キャスティングのかなり早い段階で決めていた。
彼を初めて見たのは雑誌のグラビア写真だった。アスファルトの地面に寝転がっている写真だった。それを見て、まずこの子に会わないことには、中野のキャスティングは進まないとキャスティング・プロデューサーに告げた。何がそう思わせたのか、上手く説明ができない。直感といえばそれまでだけど、ぼくはそれほど直感が強くはない。何とか言葉にすると、忍成くんの周囲に漂う空気をこの映画に持ち込みたかったということだろうか。映像には映らないけれど、空気は、確かに見える。
中野はとても繊細な役どころだ。交番の机について外を眺めているのが好きな青年だ。大学の二部に入ったが最近はあまり行っていない。珈琲を淹れるのが唯一の趣味で、その腕前は相当のものだが、やたらとうんちくを垂れることはしない。交番勤務の巡査は定められた時刻に担当地域を自転車に乗って巡回しなければならない。これを巡回連絡という。これが、彼が社会とかかわる数少ない機会だった。
忍成くんのHPを見て驚いた。温泉が趣味だと書いてあった。初めて会ったときそのことを尋ねると、はにかみ気味に微笑んで「つぎはどこの温泉に行こうかと考えてるのが好きなんです」と忍成くんは答えた。
ぼくは、中野をやれるのは彼をおいてほかにはいないと思った。温泉好きだからではない。どこの温泉に行こうかと考えてるのが好きだという答えが気に入ったわけでもない。ぼくが気に入ったのは、はにかみ気味に微笑んだ瞬間の揺れて漂う空気だったのではないかと思う。その空気はグラビア写真で見たものよりずっとずっと良かった。
中野は交番の机について外を眺めているのが好きな青年と書いた。これはぼくの幼かったころの体験が元になっている。
小学校の2、3年生のころだ。ぼくは自宅の2階の窓から外を眺めてばかりいた。眼下はなだらかな斜面で畑が広がっていた。農作業をする人の姿が小さく見えた。おそらく夫婦だろう。時折言葉を交わしているらしい。しかしぼくには聞こえない。そのことにぼくはとても不安になった。彼らとぼくには何の繋がりもない。遠くの中学校でチャイムが鳴った。居残っている生徒に下校を促す校内放送も流れてきた。ぼくはますます不安になった。焦燥も覚えた。農作業をする夫婦が帰ってしまうと思ったのだ。帰ってしまう前に彼らと知り合いになりたい。彼らの元へ駆けだしていきたい。しかし勇気がなかった。どうやって声をかけたらいいかも思いつかなかった。ぼくは窓から眺めるばかりだった。
あのときの不安と焦燥がなんだったのか、ぼくはいまも解決を得ていない。ずっとずっと考えながら生きていくのだろう。そしていまも仕事のない日は、気がつくと窓辺に立っている。たぶんこのことは、ぼくが映画を撮り続けていることと無関係ではないだろう。窓枠がキャメラのフレームに代わったのかもしれない。
だから白状すると、中野はぼくの分身なのだろうと思う。ぼくのなかには徹的なものと中野的なもの、相反する二つが同居している。加えて下田(不破万作)的願望ももちろんあるに違いない。
余談だが公式サイトのプロフィールを見て驚いた。
忍成くんは1981年生まれ。筒井くんは71年生まれ。遠藤憲一くんが61年生まれ。そしてぼくは51年生まれだ。で、不破さんはというと、1946年生まれだ。……おしかった。いやいや、それでいいのだ。何事も頭で考えるように上手くはいかない。
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筒井くんと忍成くんのインタビューが掲載される雑誌について、またまた間違いがありました。すみません。訂正します。
*「ソトコト」3月20日発売に、筒井くんの記事はありません。
「Ku:nel(クウネル)」19号 3月20日発売 の間違いでした。
「ソトコト」を買ってしまった方々、申しわけありません。
深く深くお詫び申しあげます。
○筒井道隆インタビュー
「Cinema☆Cinema」(学研) 3月3日発売
「ku:nel(クウネル)」(マガジンハウス) 3月20日発売
「SAY」(青春出版社) 3月28日発売
「キネマ旬報男優倶楽部」(キネマ旬報社) 3月28日発売
「QRANK vol.14」(サンクチュアリ出版) 3月31日発売
「モノ・マガジン」(ワールドフォトプレス) 4月2日発売号
「キネマ旬報」 4月5日発売
「ACTORS STYLE 2006 Spring」(竹書房) 4月下旬発売予定
「Screen Plus vol.7」(近代写真社) 4月下旬発売予定
*テレビ(CS・日本映画専門チャンネル)
「シネマホリック」(4月中旬放送予定)
○忍成修吾インタビュー
「mina」(主婦の友社) 3月20日発売
「QRANK vol.14」(サンクチュアリ出版) 3月31日発売
「side b」フリーペーパー(タイトー) 4月10日発行号
「ジャッピー」(喜怒哀楽社) 4月下旬発売予
いまのところ、以上です。
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映画『Breath Less ブレス・レス』の前売券がチケットぴあの自動発券で買えるようになりました。
Pコードは、475-864 です!
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なにかとあわただしい1週間でした。このブログの累計アクセス数が5000を越えて、今日は5800に迫ろうとしています。読んでくださっている方々、こころより感謝申しあげます。
23日は渋谷FMのトーク番組に出演、パーソナリティーの榊英雄さんと『Breath Less』について話しました。榊さんは役者でありながら監督作品も持つ方、小気味よい会話のテンポにつられてしゃべりまくってしまいました。
放送日は4月21日(金)朝10:30~10:58だそうです。
その後、宣伝をお願いしているN社のKさん、ポスター、チラシのデザイナーHさんと合流。パンフレットのイメージを話し合いました。
翌24日は清水美那ちゃんといっしょにYahooのインタビュー、つづいてインターネットテレビ「ショウタイム」のインタビューを受けました。
Yahooオークションの「エンタゲット」に脚本とサイン入りポスターを出品することにしました。開始日が分かったらまたご報告します。
「ショウタイム」では50名限定のBB試写会というのをやるそうです。抽選らしいです。このブログを読んでくれている人に当たるといいなあ。それもすぐには観られない地方の人たちに当たるといいなあ。
詳しくはこちらへ
時が経つのは早いもので封切りまであと1ヶ月を切りました。
このブログも充実させねばとこころを新たにしております。
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昨夜は阿佐ヶ谷のJazz Bar スターダストへ行ってきました。
『Breath Less』に音楽を提供してもらい、出演もしてもらった小川高生さんのライブだったのです。久しぶりに会った小川さんは花粉症で苦しんでおりました。花粉症のアルトサックス奏者。気の毒だけどなんだか笑ってしまいました。
お店のママさんに「月に一度はここでライブをやりなさい」と有無を言わさぬ迫力で迫られておりましたので、来月より第3金曜日は阿佐ヶ谷スターダストに小川さんのサックスの音が響くことになりました。
スターダストには以前より『Breath Less』のポスターを貼っていただいていて、それが演奏する小川さんのちょうど背後にあって、ポスターの中でブルースハープを吹く筒井くんと小川さんがセッションをやる映画のラストシーンのように見えました。
もし小川さんと出会わなかったら、たぶん『Breath Less』のラストは変わっていただろうと思います。
阿佐ヶ谷をロケハンして廻っているときのことでした。駅のすぐそばのJazz Bar クラビーアを下見させてもらいました。開店前の店を訪ねると、マスターの山川さんはピアノを弾いておられました。ひととおり店内を見せていただいてお暇しようとして、ぼくは、ふと思いついて山川さんに声をかけてしまいました。
「あの、路上でホームレスがアルトサックスを吹いている、というシーンがあるんですけど、ソロで吹いてほしいんですけど、どなたかいい人知りませんか」
ずいぶん失礼なものの聞き方をしたものだと、言い終わらないうちに後悔しました。
山川さんは一瞬視線を落とし、一枚のCDをプレーヤーにセットしました。
「こういうの出してる人いるんだけど、どう?」
重く沈み込んだアルトサックスの音色、哀しみの淵に足を捕られていながら、しかし旋律はけして諦めていない。わずか1分24秒のソロ曲に耳を傾けながら、いまぼくは『Breath Less』の主題曲と出会っている、と感じました。
通常、映画音楽は、撮影が済み、編集がほぼ終わりかけたころ作曲家と打ち合わせに入ります。だからまだ撮影してもいないロケハンの途中に「主題曲はこれだ!」と思うことなんかまずありません。むしろ先走りして決め込んではいけないというのが監督としての鉄則であろうと思います。
ところが出会ってしまったんですね。
『Into Somewhere』と題されたそのCDを山川さんから譲っていただき、その日のうちに小川高生というアルトサックス奏者に出演依頼(というより出演強迫かな)の電話をかけてしまったのでした。
その後、『Make A Difference』というアルバムから1曲使わせてもらうことになりました。映画の流れで言うと、冒頭シーンで流れている曲が『Between The Sheets』(なんちゅうタイトルだ!?)、中盤のクライマックス、夜の驟雨をよけながら筒井くんが聴いているのが『Into Somewhere』です。
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今月16日よりメキシコシティーで開催される第4回世界水フォーラム(Mexico 2006 4th World Water Forum)で『わらびのこう 蕨野行』が上映されることになりました。
企画の当初より、山形から全国へ、世界へ発信しようを目標に製作された作品が、一歩一歩それを実現させている姿は、関わったひとりとしてたいへんうれしいです!
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映画は公開が決まると、評論家やマスコミで映画について書かれている方々を対象にマスコミ試写(プレス試写)を行います。『Breath Less』は昨年12月から2月にかけて合計5回の試写をしました。
観ていただいた方の数人からは直接口頭やメールで批評をいただき、たいへん勇気づけられました。このブログやほかのブログでも話題になった図書新聞掲載の谷岡雅樹さんの批評には喜びのあまり朝まで飲み明かしてしまいました。
そしてネット上を散歩していたら、うれしい批評と出会いました。
ぜひお読みください。
映画監督というのは観てくれた人の批評に一喜一憂する哀れな存在なのです。
いや、ぼくだけかな。
このブログでは厳しい批評も勇気を持って紹介するつもりです。
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自宅で仕事をしながら、今夜は本田博太郎さんのことを書こう、ヘッダーの画像もそれにあったものに交換しようと考えていたら、20時40分、本田さんから電話があった。作品が公開されることをたいへん喜んでおられた。
で、仕事は後回しにして、これをアップすることにした。
ロック・ミュージシャンのYさんと酒を飲んでいたら、突然Yさんがこんな話をした。
「渡辺さんね、ぼくは田舎から出てきたころ、レコードデビューすることがとてつもなく困難で、ものすごく高い障壁に見えた。デビューできさえすれば楽になれるんだけどなあと思った。ところが実際デビューすると、もう次のレコードを作らなきゃならない。こっちのほうがずっとずっとたいへんなのだということにデビューして分かった」
ぼくは大いに同感した。作りつづけることのたいへんさを身をもって感じていたからだ。
ぼくが若山牧水を尊敬し読みつづけているのは、彼が生涯、「感じたままを詠む」ことに徹した人だからだ。容易くできることではない。
本田博太郎さんと初めて会ったのはもう18年ほど前のことだ。
当時、ぼくは監督2作目が流れた直後だった。半年かけて脚本を書き、キャスティングもほぼ決まり、メインスタッフが集まってロケハンに取りかかろうとした矢先の製作中止だった。これから監督としてやっていけるのか、いやそのまえにどうやって生活していこうか、痛いほど不安だった。
そして本田さんも、当時、たぶん仕事が少なかった(推測です)。
渋谷のバーでジャズを聴きながら、ふたり黙ってビールを飲んだ。
「いつか、いっしょに仕事しましょうね」
別れ際にぼくは言った。
本田さんは控えめに微笑んだ。
もっと気の利いたセリフが吐けないものかと、すぐにぼくは後悔した。
以後、映画やテレビで本田さんを観るたびに、渋谷の夜の街で吐いてしまった気の利かないセリフが脳裏をよぎった。
しかし、気の利かないセリフでも、言っておいてよかったと思う。実現したのだから。
本田さんとは衣裳合わせの場で再会した。いい年の取り方をしている男の顔は美しい。ぼくは確信を持ってそう断言する。安穏なだけの人生では味わえないものがある。人の味わっていないものを味わってきた強さと深く静かな熱情が男の顔を作る──とぼくは信じる。
本田さんには筒井くんの父親をやっていただいた。独り暮らしの売れない児童文学者だ。撮影の当日、本田さんは自前の衣裳をたくさん持って現れた。ぼくは行きつけのバー(大森のいっこう)から陶器の皿と器を借りてきた。本田さんが劇中で使うものだ。
「これを、(キャメラから)見えなくてもいいから壁のどこかに貼ってくれませんか」
本田さんが取り出したのは一枚の書だった。
「大馬鹿者」と大書されていた。
それは源四郎(本田さんの役名)にも、ぼくにも、そして本田さんにもふさわしいとぼくは思った。そうだ、大馬鹿者だ!
源四郎「今日はなんだ」
徹 「たまには小遣いでもやろうと思ってさ」
源四郎「くれ」
徹 「ジョーダン」
源四郎「くだらねえ冗談が受けると思っているうちはまだガキだな」
徹 「帰るよ」
源四郎「さよなら」
徹 「そりゃあないだろ、ひとりで寂しいだろうと思って来てやったのに」
源四郎「なにか盗まれちゃたいへんだからな」
徹 「これでも法の番人だぜ」
源四郎「余計質が悪い」
ところで本田さんの書「大馬鹿者」は、いま我が家の家宝となっています。
それともうひとつ、流れた監督2作目というのが、じつはこの『Breath Less』だったのです。
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若山牧水生誕の地、宮崎県東臼杵郡東郷町は先月合併し、日向市東郷町になりました。
その地から発信されている「日向あくがれ」という焼酎があります。この焼酎、旨いです。ぼくは宮崎を訪れると必ず飲みます。
この「日向」は「ひむか」と読み、宮崎全県を指すのだそうです。そして「日向市」のほうは「ひゅうが」で、こちらは地名なのだそうです。
さて極私的お知らせです。「日向あくがれ」を造っている(株)富乃露酒造店さんのHPにぼくのコメントを載せていただきました。「あくがれの人」のページにあります。映画を作っていく一番根っこにある思いをコメントさせていただきました。
このブログでたびたび著書を引用させていただいている歌人・伊藤一彦先生のコメントもありますよ。
なにゆゑに旅に出づるや、なにゆゑに旅に出づるや、何故に旅に 牧水
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海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ 牧水
苦境の真っ直中で出した第二歌集『独り歌へる』(明治43年1月1日発行)の一首です。
明治41年、牧水の苦境は始まりました。早稲田大学を卒業。ほぼ時を同じくして処女歌集『海の声』を出版。しかしそれは出版社の都合で印刷の途中から自費出版となってしまい、牧水は経済的苦境に立たされます。年末には一軒家を借りてばあやを雇い、小枝子を迎え入れようとしますが、彼女はなかなか来てくれない。実は彼女はすでに結婚しており、二児の母でもあったのです。姦通罪があった時代ですから、彼女にすればおいそれと牧水の希望に添うわけにはいかなかったのでしょう。重ねて牧水にとって不幸だったのは、彼女がその事情を牧水に打ち明けられなかったことでした。牧水20代後半の懊悩はこうして始まりました。
逃れゆく女を追へる大たわけわれとぞ知りて眼眩むごとし
同じく『独り歌へる』のなかの一首です。
初め牧水は、歌集名を『みづからを弔ふ歌』と考えていたようです。
この歌集の「自序」に、牧水はこう記しています。
「私は常に思って居る。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮のおくへ往ってしまふ。その間の一歩一歩の歩みは実にその時のみの一歩一歩で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以って私の旅のその一歩一歩のひびきである思ひなして居る。言い換へれば私の歌はその時々の私の命の砕片である」
「私の歌はその時々の私の命の砕片である」──この言葉はすごいなあ。
牧水は生涯、そう思いつづけて生き、旅をし、歌を詠んだのだろうとぼくは思っています。それは、歌集はもちろん随筆、紀行文、書簡などを読んでいくと容易に推測できることです。
しかしこの歌集の発行部数はわずか200部(150部との説も)。牧水の歌が全国の若者に愛唱されるようになるにはいましばらく月日が必要でした。
唐突だけど大好きな一首を──。
納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝が意志をまぐるなといふが如くに
このメチャクチャ破調の歌については、またいつかお話ししたいと思っています。
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Breath Less公式サイトで公開している予告編が大きくなりました。
Windows Media PlayerでもQickTimeでも640×480で見られます。
どうぞ楽しんでください。
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しばらく表紙のみで準備中だった Breath Less 公式サイトがついにオープンしました。
予告編もありますよ。画面がちょっと小さいけれどね。もう少し大きな画面で見られるようになるといいなあと思っています。ぜひお立ち寄りください。
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かぐや姫さんからとってもうれしいコメントをいただきました。
できるだけ多くの方に読んでいただきたいので紹介します。
右サイドの「最近のコメント」欄の『かぐや姫on「あくがれて行く」』をクリックしてください。
ここに掲載する方法もあるんだろうと思うのですが、まだブログを始めたばかりでその方法が分かりません。ごめんなさい。
内容をちょっとだけ補足すると、最初の「図書新聞」というのは、評論家の谷岡雅樹さんが『Breath Less』についてとてもいい評論をしてくださったのです(図書新聞2月11日号)。そこでブログ「ひとり宣伝会議」さんにコメントを寄せたのですが、かぐや姫さんは入手しづらいその新聞を、たぶん、わざわざ取り寄せられたのだろうと思います。
かぐや姫さん、どうもありがとうございます。
ではみなさま、かぐや姫さんのコメントをぜひお読みください。
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映画『Breath Less』では、不破万作さんには筒井道隆くんの先輩刑事・下田を演じていただいた。中年で独身、警察寮住まいで筒井くん(30代)、忍成修吾くん(20代)と同室なのだ。この中年独身刑事の下田が映画の後半、とんでもない事態になってしまう。
喫茶店で初めてお会いしたとき、不破さんは微笑みながらおっしゃった。
「とんでもない話なんだけど、ぎりぎりのところでリアリティをおさえているよね、このホン(脚本)」
ぼくはたいへんな褒め言葉をいただいたと感謝した。
実をいうと、不破さんとお会いするのはこれが初めてではなかった。
ぼくは22歳のとき、アパートを火事で焼け出された。正月の2日だった。全焼だった。焼け跡に立つ気分ってすごいです。焼け焦げた黒い残骸の山を爪先でつついたら、ギターの弦が6本並んで出てきた。歪んだフィルムの缶も出てきた。書きためていた脚本はその灰すらなかった。
それからぼくは友人のアパートを転々としながらアルバイトに精を出した。そして決心した。ちゃんとプロの世界に入って、一から修行をしようと。それまでのぼくは、自主製作で好きなときに好きな映画を撮れればいいかなと、かなり甘い考えで映画を捉えていたのだ。
半年後、ようやく6畳一間のアパートを借りた。住所は杉並区梅里2丁目、この映画の舞台の一角だ。風呂は付いていないから銭湯へ行く。
一方、プロの世界へ入ろうと決心はしたもののその伝手は何もなかった。考えた末、電話帳から映画を作っていそうな会社を拾い出し、片っ端から履歴書を持って訪ねていった。その数、20社を越えた。すべて門前払い同然だった。
ある夜、閉店間際の銭湯に飛び込んだ。湯船につかっていると、異様な男たちの群れが入ってきた。顔に奇妙な化粧をしている。すぐに気がついた。そして震え上がらんばかりに興奮した。それは状況劇場の役者さん達だったのだ。上野で芝居を終えて、そのままこの銭湯へやってきたのだ。あとで知ったのだが近くに稽古場があったのだそうだ。
唐十郎さんがいる。根津甚八さんがいる。大久保鷹さんがいる。十貫寺梅軒さんがいる。そしてもちろん不破万作さんもいた。みんなぼくといっしょに湯船につかっていた。
自慢ではないが(といって自慢する)、ぼくはそのころの状況劇場の芝居はほとんど見ていた。唐さんの戯曲も出版されたものは読んでいた。あるとき上野の不忍池特設の小屋で、幸いにもぼくらのグループは客席の一番前を確保した。かぶりつきだ。もう役者の汗は飛んでくる。唾は飛んでくる。そして李礼仙さんの指から指輪が飛んできた。芝居がはねて、ぼくらは恐る恐るその指輪を返しに行った。
「ありがと」
李さんはそういってニカッと微笑んだ。
その夜、どうやって家まで帰り着いたか、ぼくはまったく覚えていない。興奮をどうやって鎮めたかも覚えていない。
話を戻そう。銭湯の一件から数ヶ月後、履歴書を持って訪ねたうちの一社から電話があった。助監督に欠員が出たから今日から来てくれということだった。こうしてぼくはプロの世界へ足を踏み入れることができた。
そして十数年後、ぼくは『湾岸ミッドナイト』で初めて大鶴義丹くんと仕事をした。銭湯では小学校に入る前後くらいの子どもだった。脚本を書いた『わらびのこう』では李さんに出ていただいた。そしてこの『Breath Less』でようやく念願の不破万作さんと仕事ができたのだった。
筒井くん(徹)と不破さん(下田)のやりとりをちょっとだけ──
下田「俺、寮を出るぞ」
徹「辞めるんですか、辞めて何やるんです?」
下田「辞めるとは言ってねえよ。寮を出るんだ」
徹「でも所帯持たないかぎり出られませんよ」
下田「だからそれだよ。俺が結婚したらおかしいか?」
徹「はい」
下田「この野郎」
徹「でもよく決心できましたね」
下田「(テレて)勢いだよ、勢い」
徹「いえ相手の女性が」
下田「……」
徹「すみません」
このあと延々と長芝居が続くのだが、筒井くんも不破さんもしなやかに演じきってくれたのでした。
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